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山背古道お茶探検隊・活動日誌

日本紅茶の歴史

以下の記述は、多くを文献※1により、そのほかに末尾の文献を参考にさせていただきました。

紅茶製法書
 明治維新の後、緑茶は生糸と共に数少ない日本の輸出品として、生産が奨励されていました。ところが、中国で作られた紅茶がイギリスで人気を呼び、緑茶の輸出先である米国にも進出する気配となりました。政府は上海の領事館を通じ紅茶茶種の入手、情報の収集にあたりました。明治7年に勧業寮に製茶掛を置き「紅茶製法書」と題した冊子を全国に配布しました。

九州での試作伝習
 翌年、政府は中国から二人の技術者を呼んで九州の白川県(熊本県)山鹿町と大分県木浦の二カ所で中国式の紅茶を試作紅茶製造の伝習がスタートしました。(※4では明治7年となっています)

多田元吉の登用
 同年、政府は中国に専門の技術者を調査目的で派遣すべく、静岡在住の多田元吉を勧業寮に登用。元吉は年末から翌年にかけ中国を踏査、調査を実施しています。更に、インドでの蒸気機関による紅茶製造法を調査すべく機械技術者と共に渡印を敢行。よく10年に大量の茶の種子、製茶機械設計図、研究書などを携えて帰国しています。

高知での試作
 明治10年3月前年中国人の指導によって紅茶の生産が行われた高知県の安丸村にて元吉指導で紅茶の試作が行われました。自生の山茶を使った紅茶は、英国公使館では香りの不足を指摘されるも、横浜の外国商社では中国産の紅茶より優れているという評価で、「5000斤(3トン)を輸出」(※2)

各地に紅茶伝習所を開設
 政府は明治11年の茶のシーズンから、東京、福岡、鹿児島、静岡の各府県に紅茶伝習所を開き、本格的に生産を開始。「三井物産、大倉組を通じて輸出」(※2)。又インドから持ち帰った種子は東京、愛知、三重、静岡、滋賀、京都、高知の各府県の試験園(※2では新宿、京都、兵庫、三重、静岡、千葉、愛知、志賀、高知)に播種、13年には早くも収穫が始まっています。明治19年には三重県産の紅茶が銀座で販売されました。(※2)

日本紅茶の興隆
 その後の国産紅茶の生産の状況を、鹿児島県の統計で見ると「1889(明治22)年に0.5トンの生産。1955(昭和30)年以降急増、66年には704.2トンとピークに達し」(※3)この年は鹿児島県の生産が全国の5割との事ですから、1400トン程度の紅茶が作られていた事になります。この時、しかしその後は下り坂に転じ、「1971年の輸入自由化によりそれまで少量でも生産されていた国産紅茶はほとんど市場より姿を消し、事実上国産紅茶はなくなりした。」(※4)鹿児島県の統計でも「73年の欄は空白となっている」(※3)そうです。

参考文献
※1 歴史探訪14号    「茶道楽」http://www.tokai.or.jp/chabunka/home/frame.htm
                                  ホームページtopのアドレスです
※2 国産紅茶のお話し 高木び氏 http://homepage1.nifty.com/chai/J-tea/J-tea1.htm
※3 平成茶考紅茶への夢 南日本新聞 http://www.minaminippon.co.jp/kikaku/cha/cha8-6.htm
※4 国産紅茶の歴史 自然空間イートハーブ http://www.rakuten.ne.jp/gold/eatharb/izumo1.htm
    国産紅茶の歴史と展望 山田新一氏 http://homepage1.nifty.com/JTC/yamada.html


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